旅するもうひとつの名前

旅と創造

連載第5回



文・絵 小林エリカ

10年ほどまえ、私のメールボックスに一通のメールが届いた。差出人はErika Kobayashi。しかしそれは、私が送ったメールが返送されたものではなかった。私と同じ名前を持つ、もうひとりのErika Kobayashiから差し出されたものだった。
 メールを開くと、そこには英語でこんなメッセージが書き記されていた。

わたしはブラジルに生まれ、編集の仕事をしていましたが、今はパリでジャーナリズムの勉強をしています。インターネットでわたしはわたしと同じあなたの名前を見つけ、ずっと気になっていました。今度東京へ行くので、よかったら会いませんか?

私たちは東京の恵比寿駅で待ち合わせをした。同じ名前を持つもうひとりの人間に会うというのは不思議なものだった。彼女は日系ブラジル人だったので、見た目は黒い髪に黒い瞳、一重まぶたの切れ長の目をしていた。私の方が少しだけ背が高く、彼女の方が2歳だけ年上だった。私は日本語、彼女はポルトガル語を話すため、私たちは片言の英語でお喋りをした。
 まずはじめにやったのは、お互いにErika Kobayashiという名前が印刷された名刺を交換することだった。

その後、パリからブラジルへ戻った彼女と私は、メールで文通をした。私たちは地球の真裏、12時間の時差のこちらとあちらで、写真とメールを交換しあった。同じ時間にお互いの部屋の写真を撮って送った。彼女の部屋は朝で、私の部屋は夜だった。彼女の部屋には小さなピンク色のカバーが掛かったベッドが置かれていて、窓の向こうには、巨大なゴムの樹が見えた。
 それから、お互いの家族のことや、ボーイフレンドのことを、それぞれ書いた。彼女にはToshikoという名前の日本人の祖母がいたけれど、彼女が生まれて数ヶ月で亡くなってしまったこと。父方の祖父母は、茨城県石岡からやってきたこと。彼女は、父方の祖父母のことを、ばーちゃん、じーちゃんと呼んで、ポルトガル語と日本語をまぜて喋ったこと。はじめてのボーイフレンドが書き送ってくれたラブレター。宛名はもちろんErikaであった(それは「ランブルフィッシュ」の本に、書き込まれたものだった)。
 私たちは、いつか一緒に本を書けたらいいね、と話し合った。けれど、彼女はほどなくしてブラジルからポルトガルへ移住することになり、私は出産で慌ただしくなり、なんとなくそのまま忙しさにかまけて、文通は途絶えてしまった。

彼女はいま、ジャーナリストをやめて、パフォーマーとして茶道のイベントを開催したり、ヨガを教えたりしているらしい。Googleで検索をすると、彼女の画像も私の画像と一緒に出てくるから、知っている。時々は、彼女に宛てたものと思われるポルトガル語のFacebookメッセージが間違って私宛に届くこともある。
 そのたびに、私は私と同じ名前を持つ彼女を想って、安堵する。地球の真裏で、きょうも私と同じ名前を持つ彼女が、生きている。それはとてつもなく、心強いことに思える。
 たまたまの偶然だけで、私たちは出会い、この広い世界のこことそこで、お互い辛いことや哀しいことも楽しいこともありながら、きょうも一緒に、年を取っている。

小林エリカProfile
小説家・マンガ家。1978年東京生まれ。アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)で注目を集め、『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で第27回三島賞候補、第151回芥川賞候補に。光の歴史を巡るコミック最新刊『光の子ども3』(リトルモア)発売中。国立新美術館「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」展(~2019年11月11日)参加中。