さよなら、また逢う日まで ヒルトップの風景たち

東京都

2024.01.30

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さよなら、また逢う日まで ヒルトップの風景たち

カメラやアート・建築が好きな旅色LIKESライターのリリが書く、フォトエッセイの連載。今回は2024年2月12日をもって老朽化対策のため無期限休館となる、東京・御茶ノ水にある山の上ホテルを紹介。多くの文豪に愛され、アール・デコで彩られた名建築のホテルとの数々の思い出を綴ります。

目次

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休館イベント 〜また、お逢いする日まで〜

山の上ホテルとの思い出

名建築で昼食を 〜初めてのコーヒーパーラーヒルトップ〜

おわりに

休館イベント 〜また、お逢いする日まで〜

印象的な正面玄関

印象的な正面玄関

東京の真ん中、御茶ノ水駅から徒歩約5分、賑やかな大通りから一歩入ったところに佇む小さなクラシックホテル。山の上ホテルはあまり人目につかない高台に位置し、落ち着いた雰囲気の老舗だ。優美でユニークな名建築としても知られ、1920年代に欧米で流行したアール・デコ様式が取り入れられている。

アール・デコのフォントがかわいらしい。階段の巾木タイルは美濃焼

アール・デコのフォントがかわいらしい。階段の巾木タイルは美濃焼

美しい手すり

美しい手すり

照明デザインも凝っている

照明デザインも凝っている

大理石があしらわれたエレベーターは昭和47年まで手動式だった

大理石があしらわれたエレベーターは昭和47年まで手動式だった

塔のファサードや内部の階段、天井、床など細部に至るまで美しい意匠を堪能できる貴重なホテルだ。休館まで1カ月を切り、地下の廊下や1階ロビーでは、ホテルのこれまでの歩みを辿れるようになっている。

開放的で明るいガラス張りの山の上教会の天井。普段は入れない

開放的で明るいガラス張りの山の上教会の天井。普段は入れない

緑に囲まれたヒルトップガーデン

緑に囲まれたヒルトップガーデン

1937年に「佐藤新興生活館」として生まれ、戦後GHQの接収解除後の1954年に「山の上ホテル」として開業した歴史、設計者ウィリアム・メレル・ヴォーリズや創業者の吉田俊男について、そして、多くの文豪とのエピソードなどが思い出の品と共に展示・公開されている。挙式が無い日は山の上教会の見学も可能だ。

天井のデザインとテラゾーの床のデザインが同じ

天井のデザインとテラゾーの床のデザインが同じ

私が山の上ホテルに興味を持ち始めたのは、数年前に観たドラマ「名建築で昼食を」(テレビ大阪)がきっかけ。以来、いつかきちんと見ておこうと思っていた建築だった。これまでも訪れたことはあったが、当時はさほどクラシックな建物には興味がなかったため、あまりよく見ていなかった。それでも初めて足を踏み入れた時、醸し出す独特の雰囲気に魅了されたのを覚えている。

初めて訪れた時は赤い絨毯が敷かれていたような気がしていたけど、やはり変わったようだ。今のテラゾーの床は2019年のリニューアルで、開業当時の意匠に蘇ったものだと知った。

階段のディティールが興味深い

ヴォーリズの設計図。階段のディティールが興味深い

旅先でこんなスケッチがサラッと描けるようになるのが密かな私の目標

旅先でこんなスケッチがサラッと描けるようになるのが密かな私の目標

設計者のヴォーリズは関西で多くの建築を手掛けているが、英語教師として来日した彼がなぜ日本で建築家として知られるようになったのか、御茶ノ水駅からホテルへ向かう途中、いつも気を取られていた近江兄弟社ビル(メンソレータムで有名な会社)との関係まで、私の断片的な知識と疑問が一気に繋がった展示だった。

ラウンジの光の入り方が心地よい

ラウンジの光の入り方が心地よい

調べ物ができるように辞書が揃えられたライティングデスク。脇の本棚には伊集院静氏の著書が並んでいた

調べ物ができるように辞書が揃えられたライティングデスク。脇の本棚には伊集院静氏の著書が並んでいた

三島由紀夫氏の手紙「東京の真中にかういう静かな宿があるとは思わなかった。 設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人っぽい処が実にいい。 ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」

三島由紀夫氏の手紙「東京の真中にかういう静かな宿があるとは思わなかった。 設備も清潔を極め、サービスもまだ少し素人っぽい処が実にいい。 ねがはくは、ここが有名になりすぎたり、はやりすぎたりしませんやうに」

創業者の家系のつながりと立地から文芸に関わる人々に愛されてきた山の上ホテルは、川端康成に始まり、三島由紀夫、池波正太郎、ムーミンの作者であるトーベ・ヤンソン……多くの作家が常宿としていた。作家をホテルに閉じ込め、締切前の作品を書かせる“カンヅメ”ホテルとしても知られている。特に昭和40〜50年代前半には、客室の半分以上が作家で埋まるという時代もあったのだとか。芥川賞や直木賞を受賞後、「次作を山の上ホテルで執筆するとヒットする」というジンクスまで存在していたらしい。

私は読書は好きだが、ここを贔屓にしていたという作家の作品をほとんど読んだことがない。せっかく興味を持ったので休館中にこのホテルに関連した作品を読もうと思い、帰りがけに神保町の書店に立ち寄る。山の上ホテルが舞台となる柚木麻子氏の小説「私にふさわしいホテル」を手に取った。

山の上ホテルとの思い出

中国料理 新北京

中国料理 新北京

「天ぷら山の上」は池波正太郎氏の「銀座日記」に何度も登場するらしい

「天ぷら山の上」は池波正太郎氏の「銀座日記」に何度も登場するらしい

山の上ホテルはおいしいものの宝庫だ。私が初めてここに足を運んだのは10年くらい前だろうか。地下にある「中国料理 新北京」に行くためだった。結婚記念日に行くレストランをリサーチしていた時、知人に勧められたのだ。料理はこれまで食べてきた中華のコース料理の中で、群を抜いておいしかった。

コースの食材

コースの食材

一番の思い出は、結婚10周年の記念日に訪れた「和食と天ぷら 山の上」。一枚板のカウンター席に座り、目の前で揚げてくれる特別感に興奮しながら、大人だけに許された極上の時間を過ごした。

丁寧な下ごしらえ、各食材の食感がどれも今までに味わったことのない逸品だったことに感動した。ねっとりとした歯触り、なのに軽くてカラッとした海老の天ぷらは生まれて初めてで、一口ひとくちを噛み締めた。鱚の天ぷらはふわっふわで、椎茸も茄子もアスパラガスも……どれもこれも素材のよさが活きていて、全てが本当に素晴らしかった。新鮮な胡麻油で揚げる天ぷらは全く重さを感じず、揚げ物を食べている感覚はまるで無い。

中温と高温の揚げ鍋をそれぞれ用意し、食材によって使い分けているそうだ。適宜、油を交換しているので常に新鮮な油でいただける。今まで食べた天ぷらとは別次元だった。油がとにかく苦手な夫は、私以上に感動していた。甚くこの店が気に入った彼は、帰り際に「お釣りは要らないから」と言い張って少しだけ店員さんを困らせた。

奮発して盛りだくさんのコースを頼んでしまい、美味しいかき揚げ(天バラ)を残す羽目に

奮発して盛りだくさんのコースを頼んでしまい、美味しいかき揚げ(天バラ)を残す羽目に

店内は平日にもかかわらず、ほぼ満席の状態を保っていた。客層は結構高めで私たちが群を抜いて若かったが、ちょっと場違いな精一杯の背伸びをした客を料理長は温かく迎えてくれた。私の隣には念願叶って初めて来たという60代くらいの女性一人客。嬉しそうに一品ずつ堪能していた。

少しして、女性客の隣に宿泊客と思われる年配の婦人が一人でやってきた。彼女は常連さんのようだった。マダムと呼びたくなるその老婦人の優美な佇まいは、誰よりもこの店にマッチしていた。「いつもの、お願いね」と、ごはんと味噌汁、名物らしいさつま芋の天ぷらだけを注文すると、大きすぎて食べきれないからと隣の女性に「半分召し上がらない?」と声をかけていた。出された揚げたてのさつま芋の天ぷらを見て驚いた。大人の男性の握り拳くらいの大きさがあっただろうか。10cm程の切り株状にしたさつま芋を約40~50分じっくり揚げることで、水分と甘味をしっかり封じ込めるそうだ。「焼き芋に勝る味を天ぷらで」の思いで元料理長、近藤文夫さんが生み出したのだという。これをまだ味わっていないことが心残りだ。

そうそう、もう一つ、テーブル席へ運ばれていく度に気になっていた、あの大きな穴子の天ぷらも食べたかったなぁ。しばらくは本店では味わえないと思うと、なんだか寂しい。

名建築で昼食を 〜初めてのコーヒーパーラーヒルトップ〜

開店前の店内で

開店前の店内で

私にもついに名建築で昼食を食べる日がやってきた。ドラマを観て以降、ずっと行きたいと思っていたのに、いつでも行ける距離にあるからと先延ばしにしていた矢先に飛び込んできた休館のニュース。休館発表後、整理券を取らないと入れなくなってしまったコーヒーパーラーヒルトップだったが、今行かないと後悔すると思い立ち、平日の朝10時半に店を訪れた。

メニュー表のフォントもかわいい

メニュー表のフォントもかわいい

水出しダッチコーヒーは氷を入れた冷水で12時間かけて一滴ずつゆっくり抽出。さらに一晩寝かせて味を馴染ませてから提供するスペシャルな一杯

水出しダッチコーヒーは氷を入れた冷水で12時間かけて一滴ずつゆっくり抽出。さらに一晩寝かせて味を馴染ませてから提供するスペシャルな一杯

レースの縁はHILLTOP HOTELのスペルになっている

レースの縁はHILLTOP HOTELのスペルになっている

11時から配布された整理券は32番目で、13時くらいの入店とのことだった。館内の見学やホテル周辺をぶらぶらしながら呼び出しを待つ。思いのほか早く順番が回ってきたようで、12時台には食事をすることができた。

たくさんの名物メニューを前に散々悩んだ挙句オーダーしたのは、やっぱりドラマの主人公と同じ「小海老のロングマカロニグラタン」と「プリンアラモード」。調子に乗ってサラダと水出しコーヒーもつけてしまった。

池波正太郎氏の描いた絵と陶器の薔薇があしらわれたシャンデリアに目を奪われる店内

池波正太郎氏の描いた絵と陶器の薔薇があしらわれたシャンデリアに目を奪われる店内

周囲を見渡すとランチタイムど真ん中の時間帯にもかかわらず、デザートのみを注文している女性が多数。中にはデザートメニューだけを3品注文している人もいた。うん、わかるよ。ババロアもコーヒーゼリーも食べたいもんね。私はご飯どきには食事メニューを食べずにはいられないタチなので、潔くデザートだけという選択ができない。そもそもメニューを見ながらオムライスにカレー、ハヤシライス、更には季節のパフェにも目移りしていた。誰か連れて来ればよかったなと、少しだけ一人で来たことを後悔する。

びっくりしたのはサーブされた30cm近くありそうなグラタンの大きさ。頼みすぎたかなと思ったが、食べ始めたら心配無用。10cmほどある細長いマカロニとぷりっぷりの海老、カルピスバターを使用しているというベシャメルソースもおいしくて、あっという間に完食してしまった。これが文化人に愛されてきた人気の味か!

美しく芸術的なプリンアラモード。りんごの薄切りの繊細さ!

美しく芸術的なプリンアラモード。りんごの薄切りの繊細さ!

そしてお待ちかねのプリンアラモードが到着。あゝどこからみても美しい。昔ながらの硬めのプリンは卵とカラメルの味が濃厚。食べるのがもったいない白鳥のシュークリームは、シュー生地がとても香ばしかった。プリンを彩るフルーツはフレッシュでみずみずしい。バニラアイスも素晴らしく、コーヒーはコクと苦味が強く雑味がない。これで作ったコーヒーゼリーは最高だろうな。次に来た時はコーヒーゼリーを注文しようと決めた。満腹、満足、至福の時間だった。

ホテルショップ・ヒルトップのショーケース

ホテルショップ・ヒルトップのショーケース

ホテルのイラスト入りの紙袋にテンションアップ

ホテルのイラスト入りの紙袋にテンションアップ

休館イベントに訪れた日も、パーラーの整理券をゲットした。けれど入店は72番目(540分待ち!)で、この日は滞在時間が限られていたこともあり、二度目の入店は叶わず。諦めてホテルショップで「クレームカラメル」と「山の上ロール」を購入することにした。ホテルの紙袋を持っているだけでテンションが上がる。自然と顔がニヤけるのを我慢しながら帰宅した。自宅で名店の味を堪能する。ふわふわの溶けるようなスポンジ、甘すぎない生クリーム、濃いカラメルの昔懐かしい硬めのプリン。最高だ!

おわりに

窓辺はリサ・ラーソンのライオンの特等席。再開の時も出迎えてほしい

窓辺はリサ・ラーソンのライオンの特等席。再開の時も出迎えてほしい

無期限休館と聞いて、もしかしたら営業再開はないのかも……という心配は杞憂だった。休館理由は老朽化への対応を検討するためで、工事期間が予測できないのだそうだ。再開を前提としていると聞いてひと安心。

古きよきクラシックホテル、山の上ホテル。願わくばこの美しさはそのままに、休館から再開してほしい。その暁にはかつての文豪たちのようにホテルに“カンヅメ”になって執筆してみたい。そしておばあちゃんになった私は天ぷら山の上のカウンター席でこう言うのだ。「いつもの、お願いね」と。

◆山の上ホテル
住所:東京都千代田区神田駿河台1-1
電話:03-3293-2311

山の上ホテル公式HP

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#東京都 #山の上ホテル #名建築 #天ぷら #御茶ノ水 #パーラー #レトロ建築 #文学旅 #アール・デコ #ヴォーリズ建築 #クラシックホテル

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フォトエッセイ リリ

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東京都在住の会社員。カメラを片手に街歩きをしたりカフェ巡りをすることが趣味です。大好きな建築やアートなどを中心に、旅先で得た気づきや体験を感じたままに独自の感性で綴ります。

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