高橋久美子の旅のメモ帳vol.7「茅ヶ崎と小津安二郎とピーナッツ」

神奈川県

2022.06.20

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高橋久美子の旅のメモ帳vol.7「茅ヶ崎と小津安二郎とピーナッツ」

作家・作詞家として活躍されている高橋久美子さんが、旅先でとったメモを起点に心にとまった風景を綴る連載エッセイ。第7回は「秦野のピーナッツ」。昭和を代表する映画監督や明治の文豪も訪れた神奈川県「茅ヶ崎館」での出会いとは。

文・写真/高橋久美子

なんだ、このダイイングメッセージみたいなメモは、というのがたまにある。
「秦野のピーナッツ」……うーむむ。ピーナッツといったら千葉じゃないの?
あぁ、思い出した。二年前の夏に宿泊した旅館の朝食に出てきた、ほうれん草のピーナッツペースト和えのことだ。

一昨年、執筆に煮詰まった私は、小津安二郎の定宿だったという茅ヶ崎館に電話をしていた。ときどきこうして、宿に籠もって集中しようという作戦に出る。ご時世だろう、前日だというのにすんなりと予約が取れた。しかも、小津さんがいつも使っていた二番の部屋が空いているという。この部屋は、いつもなら世界中からやってくる小津ファンで埋まっているのだと電話口で女将さんが言った。

翌日、電車とバスを乗り継いで私は一人知らない街へ来ていた。さすがサザンオールスターズを生んだ街だ。サーファーらしき人々がビーチサンダルで闊歩し、潮風の似合う西海岸風情漂う街並みだった。「サザン通り中央」というバス停で降り住宅地を奥へ入っていくと、国の有形文化財にも指定される茅ヶ崎館は突如現れる。創業明治32年、丘の上に見える建物もさることながら、立派な前庭には青々と木々が生い茂り、石段を上っていくと蝉の声が耳をふさいだ。昔のままの夏が姿を見せて、そこだけ時代が止まったようだ。

美しいのれんのかかった引き戸を開けると、しんと静まり返って他のお客さんの気配はなかった。こんな時期に東京からやってきた私を、女将さんは歓迎してくれ、展示された小津さんの愛した小物や家具を見せてくれた。
二番の部屋は、小津さんの使っていたあの日のままだと言った。座卓も電灯も、すすけた天井も。ここで野田高梧や、池田忠男・柳井隆雄らと連日脚本を考えていたのだそうだ。自分たちで干物やハムエッグを焼いたりしていたから天井には油染みがあるのだと言った。8畳ほどの部屋でまさか料理までしていたとは。
それから、そこの椅子は樹木希林さんの遺作「命みじかし、恋せよ乙女」の撮影で樹木さんが座ったものなんですよと広縁を指差した。記念館にありそうなものが惜しげなく使われているきっぷの良さたるや。是枝監督もときどきこの部屋に泊まって執筆されているそうで、茅ヶ崎館が映画ファンにとっての聖地になっているのもうなずける。
「だから、あなたもきっといいものが書けると思いますよ」
私は俄然やる気が出てきた。

電話でも言われていたけれど、その時期夕食はやっておらず、朝食もお客さんが二人以上からでないとできないようだった。私は2泊することになっていて、翌日は他のお客さんが一組いるので朝食を食べられるが、二日目はなしということだった。女将さんは申し訳なさそうに、近くの惣菜屋を教えてくれた。小津さんたちのことを考えると、街で買ったものをこの部屋で食べるのも楽しみになった。
いよいよ女将さんも近くの自宅へ帰っていかれて、本当に旅館一棟まるまる私の貸し切りだった。いい感じに放ったらかしの合宿所みたいなニュアンスがこの宿の粋な部分だった。長い廊下を歩きながら、金田一少年の事件簿が繰り広げられそうで変な妄想も巡ったりしたが、私は集中して書くことができていた。

夕暮れ、裏庭からつっかけを借りて外に出て、広い中庭を抜けると目と鼻の先が海だった。小津さんもここから外へ出て海へ散歩するのが好きだったそうだ。
スマホも財布も持たずに、長い下り階段を降りて海へ向かう。茅ヶ崎館を一歩出ると21世紀の日本だった。車通りを渡り、つっかけを砂まみれにしながら海岸を歩いて、熱々の砂の上に腰を下ろす。マスクをした学校帰りの高校生が映画のワンシーンのように波打ち際で佇んでいる。犬を散歩させる人、手をつないだカップル、海の家が解体される音。夏が終わるらしい。海辺に暮らす人々の日常がここにはあって、私は海を眺める人々を眺めていた。生きているそれ自体が作品だった。

翌朝の朝食に、見慣れないものが出ていた。ほうれん草の胡麻和えではなく、茹でたほうれん草にべったりとピーナッツペーストがのっている。一口食べてみると、あまりに美味しい。味噌や醤油と和えているのかと思いきや、ほぼほぼピーナッツに委ねている。ほんの少しの塩気だけで、ここまでピーナッツを信頼したおかずを私は知らない。
「ピーナッツというと千葉のイメージですが、このあたりの名産なんですか?」
と仲居さんに尋ねる。
「神奈川では秦野市がピーナッツの生産地として有名でして、ピーナッツ和えにすることもこの辺ではスタンダードなんですよ」
東京から来たという隣の夫婦も一緒に驚きながら、おかげで朝食にありつけて良かったですと互いに笑った。

二番の部屋、ライトがとてもかわいい。

樹木希林さんが映画の中で座っていた椅子。

翌日も海にはいろんな人が集っていた。

高橋久美子の旅のメモ帳vol.8「夏休みと旅」

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#旅館 #神奈川県 #エッセイ #茅ヶ崎館

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作家・作詞家 高橋久美子

作家・作詞家

高橋久美子

1982年愛媛県生まれ。作家、詩人、作詞家。バンド、チャットモンチーのドラマーとして活躍後2012年より文筆家として活動する。詩、エッセイ、小説、絵本、絵本の翻訳のほか、様々なアーティストに歌詞提供を行っている。主な著書に、旅エッセイ集『旅を栖とす』(角川書店)、小説集『ぐるり』(薩摩書房)、詩画集『今夜 凶暴だから わたし』(ミシマ社)エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)など多数。近著『その農地、私が買います』(ミシマ社)が話題となっている。

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