高橋久美子の旅のメモ帳vol.3「旅の空気を貼り付ける、モロッコの旅」
作家・作詞家として活躍されている高橋久美子さんが、旅先でとったメモを起点に心にとまった風景を綴る連載エッセイ。ページを開けば、あの日の空気ごとよみがえるのも旅のメモ帳ならではです。
文・写真/高橋久美子
旅のメモ帳には、ときどき文字以外のものがあったりする。電車の切符や、旅先で出会った人の似顔絵、地図、現地の草花が張り付いていることもある。
もう色あせてしまった薄ピンク色の花弁に鼻を近づけると、まだほんのりと甘い香りがする。この薔薇の花は5年前、モロッコを旅したときに出会った少年達がくれたものだった。もっとちゃんと押し花にして栞にすればよかったのに、私はその花を旅のメモ帳に挟んでしまった。バックパックの中で潰れるのが嫌だったからだ。
村に入った瞬間から、薔薇の良い匂いが漂っていた。“薔薇の谷”と呼ばれる村ケアラ・ムゴナでは、砂漠の中にあっても奇跡的に水が保たれ、木々が茂り、人々が生活していた。ローズウォーターが村の産業なのだそうで、広がる畑の殆どで薔薇を栽培している。黄砂の広がる砂漠地帯でローズウォーターが作られていることに驚いた。
そんな砂漠の村で出会った5人の兄弟たちは、背中に麦を積んだロバを引いていた。畑仕事からの帰り道だったのかもしれない。
「ちょうど、この間収穫が終わったところで薔薇はもうないんだ」
と、中学生くらいの長男が言った。
「もうちょっと早く来ればすごい光景が見えたのになあ」
弟のうちの一人も口惜しそうにした。
「そこも、ここも、あっちも、ぜーんぶ薔薇の木で、全部に薔薇が咲いていたんだよ」
「その一つ一つを手で摘み取って、ローズウォーターにするのさ」
少年たちは身振り手振りと少しの英語で私に畑の様子を説明した。みんなとても誇らしげだった。
それから、なにやら相談すると、畑の方に走っていってしまった。しばらくして、少年たちは息を切らして戻ってきた。弟の小さな手のひらを開くと、薔薇が入っていた。収穫の取り残しがあったようだ。日本で見る薔薇よりも小さい。でも、その2輪で辺りは芳しい香りに包まれた。少年は、嬉しそうに恥ずかしそうに、私の手に薔薇をのせ、髪飾りにするといい感じだよと言った。美しい薔薇の花を髪の毛にひっかけて、しばらくロバと少年と遊んで過ごした。
長い旅の中で、こういったことに時々出会うことがあるけれど、都市部ではお金を求められることが殆どだった。それはそれで生活の糧なのだろうと、ガイド料を渡してきた。
彼らはそういうことは全く気にせずに異国から来た私との交流を楽しんでくれているようだった。海外のお客さんと出くわすことが珍しかったからかもしれないし、確立された産業があるから余裕があったのだろうとも思う。あんずの木に登って実をとってくれ、カタツムリの殻を集めてくれた。観光地のどこにも行かず、よその国の麦畑でゆっくりとした時間が流れていった。
宿に帰ってもしばらく私の手は薔薇の匂いが染み込んでいて、少年とロバの優しい顔を思い浮かべながら眠りについた。
薔薇の谷を去る日、街に出て土産物屋さんにいくと、ローズウォーターや石鹸を山程買って帰った。彼らや、彼らの父母がこの化粧水や石鹸を作っているのだと思うと何だか嬉しかった。数年が経ち、なかなか海外には行けなくなった今、メモ帳のこのページを開く度に、あの子達はどうしているだろうと思う。あの村で、薔薇をとっているだろうか。あのときの笑顔のままでいるだろうか。薔薇の香りは薄くなったけれど、異国の地で受けた優しさを忘れることはない。