小林エリカの旅と創造 日本の春

小林エリカの旅と創造

#36 日本の春
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川面に桜の花びらが浮いている。
髪を払うとその指先にも桜の花びら。
目黒川の両脇にはすこし浮かれたようすの人たちが往来している。
真新しいランドセルを背負った子どもたちが桜を背景に写真撮影している。

卒業、入学、就職、引っ越し。
別れと出会いの季節、街をあるくだけでつい浮足立ってしまう。
桜の花は咲くのも散るのもあっという間で、心がざわつく。
確かに、こんな光景を生きているうちにあと何回見ることができるのだろうか、と指折り数える、気持ちもわかる。
立ち止まることも、酒もなしの花見をしながら、それでもやっぱり桜はいいなと思う。
この春の季節、桜を見ることができてよかった。
一瞬、やっぱりここ日本にいてよかったなという考えが浮かぶのだが、桜の花はワシントンDCだとか世界のあちこちでも満開なのだろう。

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このところずっと、私は戦前の宝塚少女歌劇団にはまっている。
古い資料を読んだり、雑誌をめくったり、残されたレコード音源を聴いたり。
少女たちは第二次世界大戦が始まる直前、当時同盟国だったドイツ、イタリアでも公演していて、そのときの日記や写真も残っている。
船に乗ってヨーロッパへ出かけてゆく少女たちは、大きく桜の柄が染め抜かれた着物に袴姿だ。少女たちが並ぶ写真は満開の桜みたいだ。

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少女たちはベルリン郊外ポツダムを訪れる。
そこでナチのハーケンクロイツをつけた少女たちと交流したりもするのだが、少女たちが一番驚いていたのは、温室で大輪の菊の花を見つけたこと。
菊の花は日本が誇る日本だけのものと思っていたのに、ここポツダムでこんなに立派な菊の花を見ることになろうとは。喜んだりがっかりしたりの複雑な気持ちであったと日記に記されていた。

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それにしても、戦前のベルリンで少女たちは鰻丼を食べたり、寿司を食べたり、日本食にも事欠かない。船の上ではプールで泳ぎ、デッキゴルフを楽しんでいる。
そのとき日本はすでに中国で戦争中で、あと三年あまりで世界もまた戦争に突入しようとは、その日記を読む私もまた、うまく想像できない。

今年もまた世界のあちこちで桜の花が咲いて散って、太陽が日に日に眩しくなってゆく。
子どもたちが真新しいランドセルを背負って、歩いてゆく。

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小林エリカ
Photo by Mie Morimoto
文・絵小林エリカ
小説家・マンガ家。1978年東京生まれ。アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)で注目を集め、『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で第27回三島賞候補、第151回芥川賞候補に。光の歴史を巡るコミック最新刊『光の子ども3』(リトルモア)、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)で第8回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。そのほかシャーロキアンの父を書いた『最後の挨拶His Last Bow』(講談社)、自身初となる絵本作品『わたしは しなない おんなのこ』など。