たちのぼる白い煙。
こんがり焼けるたれの甘い匂い。
特別な板の上では黒くてぬめぬめした物体が、
手早く目打ちされている。
素早い包丁さばきで、その物体の腹が切り裂かれてゆく。
子どもの頃、鰻屋の軒先で鰻が捌かれているのを見るたびに、私はその恐ろしさと手際の良さとに目を瞠ったものだった。捌かれた鰻はたちまち串刺しにされて、網の上でじゅうじゅう焼かれる。
ほくほくふんわりした鰻。
こんがりした匂いと甘辛いタレ、山椒の香りが混じったご飯を食べるのもまた、楽しみだった。
我が両親は大の鰻好きで、ことあるごとに大枚叩いて鰻を食べたし、子どもたちにも食べさせた。貧乏だったので、寿司といえば私は回転寿司しか知らなかったが、鰻だけは別だった。
そんな私が大人になって一緒に暮らしはじめた相手の実家は鰻の卸問屋だったから、どうやら私の人生、鰻には事欠かないようである。
鰻というのは、本当に不思議な生き物だ。
太平洋のマリアナ海域で卵は孵化するらしく、その後太平洋を回遊、川や湖で5年から10年過ごし、ふたたび太平洋を回遊して産卵場へ向かうらしいが、その過程は未だ謎に包まれているそう。
完全な養殖もまだ難しいと聞くし、絶滅危惧種にも指定されたとか。
「アンネの日記」の言葉から『わたしは しなない おんなのこ』という絵本を書こうと思い立った時、私はふと、オランダ、アムステルダムの川にはどんな魚がいるのかが気にかかった。
そう、アンネの《隠れ家》はプリンセンフラハト、つまりプリンセン運河通り、実際運河の目の前に位置するのだから。
調べてみたら、アムステルダムの川には鰻がいるらしい、ということをはじめて知った。
鰻???!!!!
私は目を疑ったが、間違いない、鰻だ。
見つけた記事によれば、かつてオランダでは運河の真中で小舟に乗った男たちが縄で空中に吊るされた鰻を素手で引き抜くという「鰻掴みゲーム」(非合法)があったらしい。優勝者には高額な賞金が与えられた。
アムステルダムで1886年7月25日行われた「鰻掴みゲーム」には、それをひと目見ようと大勢が詰めかけた。警察がその非合法のゲームを阻止しようとしたところ揉み合いになり、最後には暴動にまで発展、26人と1匹の鰻が死亡。それが「鰻暴動」と呼ばれているらしい。
実際、それからアンネが生きた時代を経ていまなお、アムステルダムの川には鰻がいるらしい。
アムステルダムの料理屋のメニューにも時々鰻がある。勿論蒲焼きではないけれど。
土用の丑の日もとうに過ぎたが、私の頭の中は鰻でいっぱいだ。

「わたしは しなない おんなのこ」
谷川俊太郎が命名した、死をめぐる絵本シリーズ「闇は光の母」の第一弾。
アンネ・フランクの言葉に着想を得た著者初の絵本作品。
8月25日発売
1,870円/岩崎書店
