大正から戦後にかけて活躍した近代日本文学を代表する作家・川端康成。昭和43(1968)年、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えた」という理由で、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。小説『伊豆の踊子』や『雪国』など数々の作品を残した川端。2022年に没後50年を迎える川端康成の作品の世界に触れる旅に出かけましょう。
文/松尾好江(ランズ)






「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」で始まる小説『雪国』。昭和9(1934)年6月、川端康成は群馬県の大室温泉旅館から汽車で越後湯沢に向かいます。その日は高半旅館に宿泊。その後、同年8月に再び越後湯沢を訪れ、雪国に出てくる「駒子」のモデル・松栄に出会ったとされています。その年の冬、越後湯沢を訪れ『雪国』を書き始めました。昭和12(1937)年、初の単行本となる『雪国』を発刊し、翌月、第3回文藝懇話会賞を受賞。
『雪国』は、文筆家の島村と芸者の駒子の関係を、雪国を舞台に綴った物語です。「雪国文学散歩道」は、島村が下車した越後湯沢駅を起点に、駒子が訪れた諏訪社や川端直筆の雪国の碑がある公園などをめぐります。
雪国文学散歩道
住所/新潟県南魚沼郡湯沢町湯沢2431-1(雪国観光舎 越後湯沢温泉)
アクセス/電車:上越新幹線越後湯沢駅すぐ、車:関越自動車道湯沢ICから約2分
電話/025-785-5353(越後湯沢温泉観光協会)


ここでの逗留中の大正14(1925)年、のちに妻となる秀子と出会った
大正7(1918)年秋、20歳の川端康成は初めて伊豆を旅します。天城峠で旅芸人の一行と道連れになり、踊子の加藤タミに出会います。伊豆旅行の際に、湯ヶ島温泉の温泉旅館「湯本館」に宿泊。その後、毎年湯ヶ島へ足を運ぶようになり、たびたび湯本館を利用しました。大正11(1922)年夏、大学の夏休みに湯本館を訪れた川端は、107枚の草稿「湯ヶ島での思ひ出」を書きます。ここから踊子部分だけを書き直したものを『伊豆の踊子』として、大正15(1926)年に発表したのです。狩野川沿いに佇む湯本館は、川端が『伊豆の踊子』を執筆した際に逗留した部屋を、当時の姿そのままに保存。ロビーには、「伊豆の踊子」の資料が展示されています。
湯本館
住所/静岡県伊豆市湯ケ島1656-1
料金/1泊2食付1名16,500円〜
チェックイン/15:00
チェックアウト/10:00
アクセス/電車:伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅からタクシーで約20分、車:伊豆縦貫自動車道月ヶ瀬ICから約7分
電話/0558-85-1028








明治32(1899)年6月、大阪市北区で生まれた川端康成は、明治34(1901)年に父を、翌年に母を亡くし、母方の祖父母に引き取られ大阪府三島郡豊川村(現在の茨木市)で暮らしますが、祖母、祖父も亡くなり、15歳で孤児となってしまいます。その後、中学の寄宿舎で卒業まで生活します。生まれつき体が弱く、学校も休みがちでしたが、成績優秀だった川端は、短歌や俳句、作文などを創作していました。川端が中学時代までを過ごした茨木市は、昭和60(1985)年に「川端康成文学館」をオープン。館内は、川端の生い立ちから、中学時代、ノーベル文学賞受賞時の資料を展示しています。また、「作家の書斎」コーナーでは、鎌倉の川端邸の書斎を再現しています。
茨木市立川端康成文学館
住所/大阪府茨木市上中条2-11-25
開館時間/9:00~17:00
休/火曜日、祝日の翌日(日曜日を除く)、年末年始
アクセス/電車:JR京都線総持寺駅から徒歩約16分、車:名神高速道路茨木ICから約7分
電話/072-625-5978


川端康成は東京・本郷のカフェ・エランで働いていた伊藤初代(ちよ)と出会います。大正9(1920)年、カフェを閉めることになり、初代は店主の姉を頼って岐阜の西方寺に身を寄せました。大正10(1921)年秋、川端と友人は初代に会いに岐阜を訪れ、再会を果たしたのが、港館(現在のホテルパーク)です。同年10月、2人は婚約しましたが、翌月、初代が一方的に婚約を破棄。川端は、初代との話をもとに『篝火』などの短編小説を執筆しました。
大正6(1917)年に岐阜市長良川湖畔に「旅館 港館」がオープン。昭和35(1960)年にホテルパークに改名しました。館内の一角には川端康成のコーナーがあります。当時の様子がわかる写真などを使ったパネルや、資料などが展示されています。
ホテルパーク
住所/岐阜県岐阜市湊町397-2
料金/1泊2食付1名13,800円~
チェックイン/15:00
チェックアウト/10:00
アクセス/電車:名鉄岐阜駅からタクシーで約15分、車:岐大バイパス岐南ICから約15分
電話/058-265-5211


