旅の匂いを嗅いでみる

旅と創造

連載第3回


文・絵 小林エリカ

バラの花びらの匂い。
雨上がりの庭の匂い。
焼きたてのホットケーキの匂い。
どの匂いも素晴らしい。
しかし、とりわけ私が好きなのは空港の匂いである。

飛行機のチケットを手に、手荷物検査を終え、パスポートコントロールを抜ける。ガラス窓の向こうには広々とした風景。遠くにはいままさに飛び立つ飛行機。
 大きく息を吸い込む。そこにあるのは、まさに芳しき空港の匂い! 興奮して思わず、鼻を鳴らす。ようするにそれは、冷房とTAX FREE免税と大きく掲げられたブランドショップの化粧品が混ざりあった匂いに違いないのだが。旅の高揚感も相まって、その匂いを嗅ぐと、不思議と胸が躍る。

それから私がもっと好きなのは、車の匂い(空港よりも頻繁に匂いを嗅ぎやすいしね)。思い返してみれば子どもの頃から車の匂いが好きで仕方なかった。特に排気ガスの匂い。みんなはゲホゲホ咳をしてみせたり、顔を顰めて臭いと言ったが、私はわざわざこっそり大きく息を吸い込んだ。
 それはドライブの匂いでもあった。どこか遠くへ、私の知らない場所へ、連れて行ってもらえる匂いだった。

三十歳の誕生日を迎えてまもない頃、アメリカを、東のニューヨークから西のロサンゼルスまで横断する旅に出たことがある。ニューヨークからニューオーリンズまではアムトラックに乗ってゆき、その先、サンアントニオでレンタカーを借りた。
 スピードを出した車で、アメリカの見渡す限り何もないような広大な土地を走り抜けるのは最高だった。実のところ、私は車は好きだが運転が苦手で、主に運転してくれたのは台湾の映像作家、イエローだったのだけれども。

彼女とふたりで安モーテルに泊まり(名前だけはラグジュアリー・インLuxury Innとかふざけたものが多かったが)、朝はカラフルなコーンフレークを食べ、昼にはウォールマートで買った安パンと人参を齧りながらドライブしてまわったのは、最高に楽しかった。
 サンアントニオからはエルパソを抜け、ニューメキシコ州ホワイトサンズ国定公園へ行った。いわゆる砂丘が広がっているのだが、砂はその名のとおり真っ白なのだ。短パン姿の若者たちが半裸でビーチ(?)バレーに興じているのだが、ちょっとした雪景色のようにも見えた。
 陽射しは強かったが、裸足で歩くと砂は冷たい。白が太陽の光を反射するから、どんなに熱い日でも砂は決して熱くならないのだと教えられた。

そこから車で2時間半ほど、約150キロ離れたトリニティ・サイトを訪れた。1945年7月16日月曜日、5時29分45秒、世界ではじめての原爆実験が行われた場所である。
 そこもまたホワイトサンズの名を冠したミサイル実験場内にあるのだが、土は白くなく赤かった。広々とした土地の真ん中に、軍のフェンスがあり、その先にトリニティ実験記念碑があるらしいのだが、年に二度の公開日にしかそこへは入れないという。未だその地の放射線量は高いのだとか。とはいえ、あたりを見まわしても何も見えない。
 窓を開けると乾ききった熱い風が吹いていて、赤土と車の排気ガスの匂いだけがした。

アメリカから日本へ帰ってきて、あの旅が終わって、十年以上の年月が過ぎた。先日台北を旅行したとき、ごく久しぶりにイエローに再会した。彼女は大きなバンを運転して、私のことをホテルまで迎えに来てくれた。彼女は当時と少しもかわらず、長くて真っ直ぐなつやつやの髪をしていたが、双子の母になっていた。車のバックシートにはチャイルドシートが二つ据えつけられていて、双子が乗っていた。私たちは抱き合って再会を喜んだ。
 車は新品なせいか、それとも電気なのか、もう排気ガスの匂いはあまりしなかった。

スベトラーナ・アレクシエービッチの『チェルノブイリの祈り ――未来の物語』という本に書かれていたことを、時々想う。

――アレーシ・アダモービッチの本のなかに、原子爆弾についての彼とサハロフ博士との対談があります。水爆の父であるサハロフ・アカデミー会員はこうたずねる。「ごぞんじですか? 核爆発のあとでオゾンのとてもいいにおいがするんですよ」。
このことばに、私や、私の世代はロマンを感じるのです。

核爆発のあとの匂い。
オゾンの匂い。
あのニューメキシコ州ホワイトサンズ、トリニティ・サイトの光景を思い出しながら。
私たちのドライブを思い出しながら。
「いいにおい」。
帰国してから訪れた、広島、長崎の街を思い出しながら。
私たちの再会を思い出しながら。
それは、いったいどんな匂いなのだろう。
ちょっとだけ、その匂いを嗅いでみたい。
心のどこかでそう思ってしまう自分の怖ろしさに私は震える。

スベトラーナ・アレクシエービッチ著『チェルノブイリの祈り――未来の物語』松本妙子訳 (岩波書店)より引用

小林エリカProfile
小説家・漫画家。1978年東京生まれ。アンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)で注目を集め、『マダム・キュリーと朝食を』(集英社)で第27回三島賞候補、第151回芥川賞候補に。過去の歴史や記憶、放射能など目に見えないものをテーマに、小説、漫画、インスタレーションなど多彩な手法で作品を手がける。