[タベサキ Vol.7]
もし村上春樹が食べ歩きをしたらぶらり、村上さんぽ

海鮮丼

東京都

2019.08.29

タベサキ

文体模写の鬼才、菊池良氏が、村上春樹風の食べ歩き記事を書く連載、第7回。今回は、見た目も鮮やかな海鮮丼を食べに。

イラスト：中根ゆたか

大海鮮丼／1050円

　わたしが眠れなくなってから十日以上がたっていた。そのことには誰も気がついていなかった。わたしが寝ているかどうか、周囲の人間にはどうでもいいことだった。わたしは夜中になると一人用のソファーに腰をかけ、サイドテーブルに水が入ったコップを置き、トーマス・マンの『魔の山』を読むのだった。わたしの顔は日に日に険しくなっていった。まるで才能が涸れてしまった音楽家のように。

　いつしかわたしの身体は、海の幸を求めるようになっていた。その始まりがいつだったのかは覚えていない。しかし、気づいたときには「三是新宿西口店」にいた。そして、大盛りの海鮮丼を頼んでいたのだ。

「大丈夫ですか」と店員が言った。「大盛りだとごはんが五倍ですよ」

「大・盛・り・だ・と・ご・は・ん・が・五・倍」

　わたしはくりかえした。店員はじっとわたしの目を見ている。真理を問う哲学者のようだった。

「じゃあ、上に乗った具材だけ大盛りというのはできないかしら？」とわたしは言った。

「上・に・乗・っ・た・具・材・だ・け・大・盛・り」と店員は言った。「できますよ」

　キッチンに戻っていく店員の後ろ姿を見ながら、わたしは首をひねった。五倍のごはんは多すぎではないだろうか。しばらくして店員がどんぶりを持ってくると、そこにはさしみが山のように乗っていた。どんぶりの上がさしみで盛り上がっていて、米がまるで見えないのだ。これでごはんも五倍だったらと考えると、わたしの気は遠くなった。わさび醤油を作り、さしみを一つずつ食べていく。どれも大ぶりで食べごたえがあり、口のなかが海のにおいで埋まっていった。こんなに豪快な海鮮丼は食べたことがない。

　店のBGMにはずっと90年代のビジュアル系がかかっていた。ルナシーの『アイ・フォー・ユー』だ。恋愛で傷ついた女と出会った男が、愛をちかう歌詞である。

「アイ・フォー・ユー」とわたしは小さく声にだした。「この悲しみにはさしみが似合う」

　その夜、わたしはよく眠れた。お腹いっぱいになったからだ。

DATA

炭火活烹三是新宿西口店

住所
東京都新宿区西新宿1-15-5 升屋ビル3F
TEL
03-6302-0903
営業時間
[ランチ]11:00～15:00、[ディナー]15:00～翌1:00(L.O.24:00)
休日
無休

Profile

菊池良（きくちりょう）

ライター。学生時代に公開したWEBサイト「世界一即戦力な男」が話題となり書籍化、WEBドラマ化される。その後、WEBメディアの制作会社や運営会社勤務を経てフリーに。主な著書『世界一即戦力な男』（フォレスト出版）、『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』（宝島社）などがある。最新刊『芥川賞ぜんぶ読む』（宝島社）が発売中。